気になるとは
おはようございます。塾長の鈴木です。どんなことでも良いのですが、「気になっていること」というのは、多くの場合、「気にした方が良いこと」や、「対処した方が良いこと」です。理由がどうであれば、自分が時々思い出しては、何か「気にかかる」「気になる」というのは、何かある、と私はいつも思っています。ですので、どんな小さなことでも、「何か気になる」というのを放っておかないことは大切に思います。もちろん、何も問題なければそれはそれで良いですが、何かの信号ということもあるわけですから。その逆に、その「何か」を拾いすぎてもまた、それはそれで大変かと思いますが。かつて、エンジニアだったときも、家に帰って布団に入ったのに、「何か気になる」と思って夜中に会社に戻って設計した装置のプログラムを調べてみたところ、そこにやっぱり不具合があったり、なんていうこともありました。いわゆる、「カン」というものですね。何千行のプログラムの中に1か所、不具合が入っていたりするわけです。普通には見つけられないようなものに気づくこともあります。
成長
こんばんは。塾長の鈴木です。高校生の定期テストが終わったと思ったら、今度は、中学生の定期テストですね。高校生はすぐ1か月くらいでテストですから、また続けてテストというところです。そうしたらもう夏休みですね。子供たちの成長を見ていると、なんと早いことかと思います。私の感覚で言えば、3年も10年も一瞬で過ぎますが、生徒さん達は、3年あれば、13歳の子も16歳になるわけで、背丈も心の面でも成長します。うちの娘も、教室を開いた時は1歳でしたが、今では4歳になるわけで、これも大きな成長ですね。さて、成長というところでは、自分自身はどれだけ成長しているのか、少し、不安に思う部分もあります。大人こそ、1日1日、子供以上に精神や経験において成長しているものでしょう。
やれること、全てやる
おはようございます。塾長の鈴木です。テストの点数がイマイチな子というのは、直前でも、つめてやらない子です。「あ~、もうできない」と投げるのが早いのです。テスト前1日の取組姿勢でも大きく変わるにも関わらずです。結果を出す子は、その1日前でも全力を尽くします。「あ~、わからない。だからいいや。」などということはしません。投げるのが早い子というのは、自分に甘い子です。勉強が出来る、出来ない以前に、踏ん張れるか踏ん張れないかのテストでもあります。
考え事
こんばんは。塾長の鈴木です。何かを考える時には、机の上でウンウンうなっても、なかなか良い答えは出てきません。一番良いのは、自分自身が一番リラックスできることをすることです。例えば、散歩なども良いと思います。つまり、体を動かすということです。何も激しいスポーツでなければならないことはありませんし、ごく普通に近くをぶらぶら歩いたりするだけでも、アイディアが浮かんでくる、ということもあります。何かに迷ったら部屋にこもるのではなく、外に出る。少し体を動かす。これも一つの方法かと思います。
なぜ?
こんばんは。塾長の鈴木です。大学でキャリアデザインの講義をするときに学生たちに聞くこととして、「なぜ働くのか?」ということを良く聞きます。皆、就活に興味は持っていて、どうやったら就職に有利になるのかなどの質問を良く受けます。ただ、その大前提として、「なぜ働くのか?」について、私は考えた方が良いと思っています。もちろん、「お金、生活の為」「働いてないと恥ずかしいから」「自分の成長の為」「社会の為」「○○系の分野に興味があるから」・・etcいろいろ、みんな答えてくれます。本当にそれだけなんでしょうか。もちろん、一言でまとめれば、そういうことかもしれません。しかし、もっともっと、深く、その人だけの言葉で話すことが本当は出来るはずです。どうすれば、深めることが出来るのか?それは、「考えて」「書いて」「考えて」「書いて」とすることです。階段を一段一段登るように、深めることが出来ます。私が働く理由は、「誰かの役にたちたいため」「自分の可能性を知りたいため」「やりたいことをとことんやっていくと、どんな人生になるのか知りたいため」もちろん、生活の為、でもありますが、仮に一生困らないだけのお金があっても、100%働きます。おそらく、殆どの人がそうなのではないかと思います。お金の為だけではないのではないかと思います。小さな子供はいつでも「なぜ?なぜ?」と知りたがります。その感覚がとても大切なことだと思います。考えれば考えただけ、自分だけの「仮の答え」が見つかります。なぜ、「仮の答え」なのかと言えば、様々な経験を積むことで、それはまた新しい、より良い答えが出てくることもあるからです。
成長の過程
こんにちは。塾長の鈴木です。多くの中学、高校で学ぶことの一つに、「ねばならない」ということを教えられます。つまり、一人一人の個性を伸ばす、というのではなく、「こういう時には、こうしなくてはならない」というような、「ねばならない」ということです。ですので、海外で育った人が、日本の中学校に入ったりすると、非常に違和感を感じるそうです。「ねばならない」はやはり必要な部分もあります。例えば、礼儀などですよね。その礼儀、というのは、「相手の為のもの」なわけです。価値観というのは、皆、人によって異なります。なんでも、自分の価値観で通用するというのは、普通はありません。世の中には、ルールを守るのが好きな人もいるわけです。いわゆる、きちっと、決まったことを決まった通りにすること、させることがしっくりくる、などです。でも逆にルールを守るのが大嫌いな人もいるわけです。人に何かを強制させられることが大嫌いという人もいます。世の中は、いわゆる、色々な価値観を持つ人たちがいるわけで、別に何が正しいとか、何が間違っているとか、そういうことは何も本来はありません。私も24歳位までは、「ねばならない」で生きてきたように思います。でも、その時に、「あれ?」と何か違うように感じたんですね。その時まで、普通に理系の大学を出て、その関連する業種のシステムエンジニアになり、仕事もある程度落ち着いてきたときでした。「自分が一番したい事は、これなのかな、もし、会社辞めるボタンがあれば、自分は押すだろうか、と考えた時、あ、100%押すだろうな」と思いました。それで、実際に退職して進んでいったわけですが、ある意味、「自分で自分の道は選んでいい。なんの制限もなしに。」と気づいたのがその時でした。「ねばならない」ということを学ぶ必要はあるかと思いますが、それに一生縛られる必要もないわけです。将来やりたいことなんて、はっきり見えない時は見えないものです。私も、人生の節目ごとに、ビジョンをたててはいますが、結構変わってしまいますし、今ですら10年後は予想できません。だったら、今、この瞬間、何をやりたいか、ということで選択をし続けていくことで、自分の道が出来ていくのだと思います。