こんばんは。
塾長の鈴木です。
「正しい」ということはある意味怖いということを先日ここに書きました。
ただ、ある場所、ある時においては、自分の考える「正しさ」というものを押し付けなければならない場合もあります。
塾で、「生徒の自主性を重んじる」などと言って、騒いでいる生徒を許したら、それは周りの迷惑であり、本人の為にもなりませんよね。
そうすると、私の考える正しさとして、「黙らせる」必要があるわけです。
ここは何をする場なのか、ということです。
最近、私自身の言葉が厳しくなってしまっているなぁと思う部分はあります。
ただ、ケジメが身についていない子にはやはりしつけなければならない、とは思います。
ここに何をするために来ているのか、ということですね。
自分が振り返っても、色々な事を身につけることが出来たのは、やはり厳しい人のもとで学んだ時なんですよね。
ただ、厳しさといっても、何より愛情があった上での厳しさです。
私が小学生の時の担任はすぐに怒鳴るし、手も出るし、という先生でした。今の時代においてはもちろんNGでしょう。
ただ、真剣に叱ってくれたということは今でも覚えているし、「こういうときに、これをしてはいけないんだな」ということが一生覚えていられる、ということは、それこそ、今となっては本当にありがたいことだと思います。
厳しさとは、その子に真剣だからこそ出るものです。真剣にならなければ、別に適当にすれば良いわけですから。