ブログ

Home/ブログ

今を生きる

2015-04-01T02:23:08+09:002015年04月01日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。たまに、将来に悲観して、自殺をしたりする人がいますが、あれもおかしなものです。将来など誰にも読めないものだし、そもそも、自分が作っていくものですから。そもそも、「今を生きる」ことしか誰にもできません。「将来を生きる」ことは出来ないわけです。もちろん、過去の失敗を何度も思い出して、過去に生きる人もいますが、まぁ、それもおかしなものです。小さい子供は、常に今に生きます。そして、自分の好奇心のままに行動します。あれが、本来人の持つ力かと思います。その状態だと、常にハイテンションでいられるのだと思います。将来に悲観したり、過去の失敗をくよくよする幼児なんていません。案外・・小中学校の時に一番クヨクヨしたりするものかもしれませんね。そして、だんだん歳をとっていくごとに、自分の無限の可能性に気づき、そして、自分で色々な選択をし、より自分が自分らしく生きることができるようになるのかと思います。大人が教えることは、本来そういったことかと思います。

一番伝えたいこと

2015-03-31T02:47:21+09:002015年03月31日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。私が教室を運営するにあたり、生徒さん達皆に気づいて欲しいことは、「人生は楽しい」ということです。思い通りになること、ならないこともあるでしょう。でも、思い通りにならないこともあるから、楽しいわけです。(人生はゲームですが、敵も出ない、キャラクターは常に無敵、なんてゲームが楽しくないのと同じです。)思い通りになっていなければ、どうやったらそれがかなえられるか、知恵を使い、行動し、対処するわけです。それが人生の醍醐味なわけです。「あれが嫌だ」「これが嫌だ」「不公平だ」なんて、本当にナンセンスです。皆、それぞれに楽しみ方が違うわけです。オフロードカーであれば、雪道は楽しめるでしょうけど、サーキットは楽しめないでしょう。レースカーであれば、サーキットは楽しめるけど、雪道は走れないでしょう。人それぞれ、得意なこと苦手なことがある、それが個性なわけです。誰かのようになる必要なんてないわけです。自分のできる精一杯をやって、物事を解決して自分の思う道を進めばいい、ただそれだけです。

人は信じたいことを信じる

2015-03-30T03:33:01+09:002015年03月30日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。人は、誰しも自分が信じたいことを信じます。事実かどうかは二の次でしょう。例えば、なんらかのサービスやモノを購入しようとしたとしましょう。「大手じゃないと安心できない。小さいところは信用できない」という考えもあれば、「大手は利益ばかりで信用できない。小さいところの方がが信頼できる」どちらもある1面では事実かもしれませんし、そうではないかもしれません。ただ、誰しも、自分の信じていることを裏付けることを集めようとしますので、自分の信じたい事例ばかり集め、自分の信じたくないことは無意識に見なかったことにします。なので、私は誰かがなんらかの意見を力説しているのを見ると、「この人は、自分のために、そういうことを信じたいのだな」ととらえます。つまり、その意見の内容ではなく、その人がどういう人なのかの判断する際に使います。

主体的が強い

2015-03-29T02:53:32+09:002015年03月29日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。何事もそうですが、自分自身で、「主体的」に取り組むのと、「誰かが言うから」などと取り組むのでは、結果が全く変わってきます。小学生などは、なかなか、勉強を自分の為、ということをとらえることができません。(たまに中学生でもいたりしますが)親が行けというから、塾にいく、なんていうのだとなかなか成績は上がりにくいです。結局、自分の為に自分が勉強するだけなのです。それに気づいた人から成績はどんどん上がりやすくなります。勉強に限りませんよね。なんでも、「他人」や「周りのせい」にしている人は成長しません。全て、「自分に責任がある」これに気づけるかどうかで、人生も変わってきますね。

偶然はない

2015-03-27T15:04:24+09:002015年03月27日|武蔵新城|

こんにちは。塾長の鈴木です。いつも思いますが、「偶然」は何一つないように思います。もちろん、「偶然」の定義にもよるかもしれませんが。とりあえず、本当の言葉の定義はおいておいて、おそらく一般的な意味な意味では、「たまたま」というところで、「必然」の反対の意味、というところでしょうか。もし、本当に「たまたま」なんていうことがあるとするのならば、それこそ、「不公平」のような気がしますし、自分ではどうしようもない、ように思います。でも、それぞれの出来事が「必然」だと考えると、その人なりの対処、今後への対策が作れるようにも思うのです。入試でも宝くじでも交通事故でも出会いでもなんでも良いのですが、いわゆる、「ハプニング」というのは、自分の想いがなんらかに関わっている、と思う方が、面白いように思います。もちろん、誰だって、明日起こることすら予想は出来ないことには変わりませんが。

春期講習開始!

2015-04-05T18:40:58+09:002015年03月26日|国立|

日頃、力いっぱいに走り回っている新3年生の子どもたちが、まるで別人?のように、まっちゃん先生の授業に集中しています。「やればできるぞ!」と心から応援しています。今日から4日間。休まずに、体調も整えて参加してくださいね。

期待と不安

2015-03-26T02:57:29+09:002015年03月26日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。皆、もう春休みですね。春休みは短いですが、新しい学年も始まりますからそれも楽しみかと思います。桜もちらほら咲き始めるころです。良く、新しく入学する場合などは、「期待と不安をかかえ」なんていいますが、期待と不安というのはある意味同じ意味なんですよね。単純に物事をどの面からとらえるかということです。まだ見ぬ、未知のものに対して、プラスに見れば「期待」、マイナスに見れば「不安」どちらも同じものをとらえていますが、その人がどのようにとらえているかで変わるものです。これが面白いもので、その人のとらえ方で、その後の結果が変わったりする、なんてことも良くありますね。であれば、楽しみにした方が良いに決まっています。で、マイナスにとらえることについては、腹をくくれば良いのです。

摸試の受けっぱなしは時間の無駄

2015-03-25T01:55:17+09:002015年03月25日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。卒業生(小6、中3)でない子たちも、もう春休みですね。教室によってそれぞれかと思いますが、こちらの教室では、特に春休みに授業をたくさん入れるよりも、春休みに授業コマを購入しておいて、テスト前に主に使う、という形のほうが多いです。その理由は、春のパックコマの単価の方が通常の1コマずつ追加するよりも単価も安いので、お買い得ですし。また、試験直前の3週間くらい前から各科目に振り分けて取り組むことで密度の高い授業も行えるということもあります。もちろん、普段からコツコツと積み上げることができれば、一番良いですね。ただ、誤解してはならないのが、コツコツというのは長時間机に向かうことでは全くありません。机に向かっていても、ただ、何かを書き写すなど、無駄なことをやっていれば、それはただの指の運動になってしまいます。勉強をやった気分になれるものと、本当の勉強とでは大きな差があります。皆、○つけはすぐしたがりますよね。でも、問題を解いて○つけするだけでは、はっきりいってそれは時間の無駄でしかありません。○つけをして、「どこを、どのように間違えて、どのように対策をするか」まで考えて行わないと意味がないのです。よく、摸試をうけて受けっぱなし、という人がいますが、あれこそ時間の無駄というものです。

カン

2015-03-24T02:04:03+09:002015年03月24日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。多くの場合、子供の抱えている問題というのは、大人であれば、解決できるということがあると思います。それは、大人の方が自由だから、といったことだけでなく、気持ちの面で、自由だから、ということのようにも思います。自由というか、選択肢が多いから、という風に言えますね。なぜ、そのように選択肢が増えたかと言えば、それなりに経験を積むからと言うことが出来ます。誰しも、それぞれ必要な階段を登ってきているわけで、そして、多くの失敗をしているからです。失敗をしているから、解決策もその数だけ知っているわけです。日本にはありませんが、「長老」などと呼ばれる人がいて、様々なことを解決したというのは、それこそ、経験が豊富だからということになるでしょう。もっとも、経験だけではないですね。ただ、経験だけで物事が解決できるのならば、それはコンピュータの方が得意でしょう。過去の事象と解決策のデータベースを作れば良いわけですから。ある程度、そういったものも出来てはくるでしょうけど、人には「直感」というものがあります。本当のところ、経験もありますが、「直感」という部分との組み合わせで物事は解決されていくように思います。

何もしないと「疲れる」

2015-03-22T21:35:28+09:002015年03月22日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。何かをして「疲れた」ということはあると思います。しかし、何もしなくて「疲れた」ということもあるように思います。よく、出張で遠方までの日帰りで「疲れた」と言いますが、私は、自分でも良く体験していましたが、その「疲れた」ということがわかりませんでした。たとえ、交通の便が悪く、片道5時間くらい新幹線や特急を乗り継ぐ場所であったりしたとき、日帰りのときもありました。(場所によっては、飛行機と殆ど時間が変わらない場所もあるのです)そうしたときは、移動中にいくつかの資料を作ったり、本を何冊か読んだりしていますので、全く「疲れる」という感覚はありませんでした。しかし、今日、何時間か、車での移動の為、読書も何もできない状況でした。(私は車で本を読むと酔ってしまうのです・・)そうすると、かえって疲れるんですよね。つまり、飛行機や新幹線の中で、様々な事をするということが実は疲れないようにしていることなのかと思います。「何もしないと疲れる」不思議ですが、これもありますね。つまり、人は適度に何かをするように作られているということなのかと思います。