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流れ

2014-10-30T04:43:37+09:002014年10月30日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。さて、橘高校、多摩高の定期テストももうすぐ終わりますから、これで、高校生の定期テストは後少しですね。それが終われば、今度は、西中原中、橘中の定期テストですね。特に中3はラストの試験ですので、今まで以上に重要なテストと言えるでしょう。さて、物事には流れというものがあります。その流れというのは人それぞれ異なるわけですが、なんらかの物事に取り組んでいるときに、大変大きな抵抗を受け、自分自身も義務感でやっている場合、これは大体間違った方向です。なんらかの抵抗というものは、基本的に自分が作り出しているものです。なんらかの困難があったとしても、流れに沿っている場合は、その当人にとっては、さほど困難ではない、ということが良くあります。もっともはたから見れば恐ろしく困難に見えますが。今、自分の進んでいる方向が正しいのかどうか。それは、本当のところ、自分自身が知っています。義務感や、責任感といった、「ねばならない」で自分を駆り立てている場合は、一度、自分の方向性が本当に正しいのか、見直す時期ともいえるでしょう。

知らないこと

2014-10-29T02:46:10+09:002014年10月29日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。子育は良く大変ということを聞きます。しかし、私のように男性はあまりそれを実感することはありません。ただ、実際に子供が産まれ、妻が子供を育てていくのを見ているだけでも、なんて大変なことをしているのだろう、と見ることまでは出来ます。小さいうちは、小さいうちで夜泣きをするなりの部分があり、これがだんだん、幼児になってくると、いわゆる、「理不尽」なことで怒り出す。理屈じゃないんですよね。何かわからないけど、自分のなんらかのルールにそぐわないことが起きると、泣き叫びだす。例えば、今朝、寝室の電気がつきっぱなしになっていたので、消します。そうすると、「消しちゃダメ~。うぎゃー。」と叫びます。そこで、「はいはい。つけたよ」と電気をつけると、自分で消しにきて、納得をする。まぁ、そのように落ち着くケースもあれば、もとに戻らないものに対して、こうしろ、ああしろ、と叫ぶ。これに妻はほぼすべての時間つきあっているわけですから、まぁ、本当に大変なのでしょう。人に会ったりするときには、多くの子供は良い子にするのでしょう。そうすると、そのごく平和な一面しか見えない。でもその何倍もの大変なことがあるわけで、そうですね、例えれば、氷山のようなものでしょうか。海の上に突き出ている氷の部分はかわいいものでも、海面下にはその何倍もの氷が隠れているというような。子育てについては、私は関わってはいないので、本当の部分は今でもわかっていませんし、子供が産まれる前は、こんなに大変なものとも想像もしませんでした。もっとも私のように、休日もないことが多いと、妻に負担をかけている部分は多いのでしょう。ただ、仕事もきっちりやりますが、家庭も出来る限りのことをしていく、これも必須でしょう。会社の事業を通じて世の中の役に立つことは大切ですが、身近な人の役に立つということも同等に大切に思います。

うらやましい

2014-10-27T23:16:26+09:002014年10月27日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。「うらやましい」という言葉があります。これも残念な言葉の一つのように思います。なぜなら、その言葉が出るということは、人と自分とを比較して、自分の方が劣っている、などと思ってみたりすることだからです。人にはそれぞれに得意な分野、苦手な分野というものがあります。例えば、F1用のレースカーであれば、舗装されたアスファルトであれば、車の中では最速かもしれません。しかし、同じレースカーでも、舗装されていない泥の道であれば、まっすぐすら走れないでしょう。自分のステージはどこなのか。それを見極めた上で、走ることが大切でしょう。人と比較することはなんの意味もありません。自分が自分の最高の力を出すことに意味があります。

光と影

2014-10-25T20:52:16+09:002014年10月25日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。多くの物事は2面性を持ちます。光だけでは存在できませんし、光があれば、必ず影が生じます。物事の見方もそうですね。なんでも、プラスにとれる人もいれば、マイナスにとる人もいます。物事自体は、本来、プラスもマイナスもありません。ただ、ラベル付けする人がいるだけです。「あの人はいいなぁ。この人はいいなぁ。私はダメだなぁ。」という考えの人、いますよね。そういう風に物事をとらえると、なんでも否定的にとらえてしまい、ますます、自分がみじめになるような出来事を引き起こします。昨日のブログでもそうですが、気持ちや性格を変えるのは難しいでしょう。いつもマイナスに考える人が急にプラスに考えるのは難しいですから。でも、口ぐせを変えることは出来ますよね。「あの人はいいなぁ。この人はいいなぁ。私はダメだなぁ。」と言う代わりに、「あの人もいいなぁ。この人もいいなぁ。私もいいなぁ。」と言えばいいだけです。考え方を変えるのは難しくても、行動を変えるのは簡単で誰にでも出来ると言いました。口ぐせだって同じです。マイナスな事を口に出す位ならば、プラスな事に言い換えて口に出せば良いのです。そうすると、気持ちも変わるというものです。言葉にも力があるのです。

気持ちは変えられなくても行動は変えられる

2014-10-25T04:44:03+09:002014年10月25日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。良く、「自分を変えよう」と思っている人、いると思います。ただ、自分の内面など性格や考え方を変えるというのは、なかなか難しい場合もあるかもしれません。そういう場合、一番簡単なのは、行動を先に変えることです。例えば、落ち込んでイジイジしてしまうのが嫌だ、と思うのであれば、落ち込んだ時には、逆に楽しいところに行って楽しむのです。落ち込んで引きこもったり、イジイジするから、気持ちが落ち込むのです。そして、行動が変わると気持ちが変わります。気持ちを変えてから行動を変えるんじゃないんです。行動はどんな気分でも変えることは出来ます。ただ、やればいいわけですから。その行動に気持ちはついてきます。機嫌が良いから鼻歌を歌うんじゃないんです。鼻歌を歌うから、機嫌が良くなるんです。こういったことが逆に教えられているのが今の世の中ですが、こういったことに気づくと、生き方のコツが見えてきます。

課題解決

2014-10-24T05:26:36+09:002014年10月24日|武蔵新城|

おはようございます。塾長の鈴木です。明るくなるのも段々遅くなってきましたね。高校生は試験が終わった学校もあれば、これからの学校もあり、高校によってまちまちですね。その点、公立中学は比較的地域の学校というのは近い時期に試験があります。今も高校生向けの数学の試験対策の解説を作っていたのですが、正直、こういった、いわゆるパズルを解くものというのは、性にあっているのだなと思いました。10年前には、まさか学習塾を経営しているなど、夢にも思いませんでした。かつて、エンジニアとして仕事をしていたときも、基本なんらかの課題を解決する、というところでは数学に似ているようにも思います。もっとも、学習塾の場合は、問題を解くというよりも、どのようにして生徒さん達に教えるか、というところが大切なわけです。課題というのは、生徒さん一人一人に対して、どのように教えることで、力になるかということを見つけていくことですね。いくら教えても、毎回教えたことがリセットされてしまうのであれば、やっている意味がなくなります。では、そういう場合にはどのように対処をすれば良いのか、そこが腕の見せ所というわけです。

体調不良はどこから来るのか

2014-10-23T03:40:40+09:002014年10月23日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。体調不良はどこから来るのでしょうか。私は基本的には気持ちからの部分が大半を占めていると思います。良く、過労死などといいますが、人は過労では死にません。過労ではなく、ストレスで死ぬのです。絵描きが絵を何枚も描いて、過労死というのはあまりないのと同じように、その人がとことんやりたいと思うことをやっていて、過労死ということはないはずです。やりたくもないことを嫌々、自分の体にムチを打って働かせるから、ストレスになり、そしてやがて自分で自分の体を壊してしまうのです。ストレスというのは、きっかけは外的要因だとしても、基本は自分です。自分が外的要因をどのように処理するかで、刃物にも、糧にもなります。

幼児の絵

2014-10-22T03:23:03+09:002014年10月22日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。どうでも良いネタです。先日、3歳の娘が私と妻を書いたのですが、青が私で、赤いのが妻とのことです。どうみても、何かのキャラクターのようで、人には見えないのですが、妻は眼鏡をかけているので、パンダのように目の周りにわっかが書かれているのが違い位です。ここで面白いのが、なぜ、私を青にして、妻は赤に書いたのかというところです。恐らく、多くの表示物において、「男性は青、女性は赤」ということが使われているからかと思いました。それから、娘の描く絵というのは、どの顔も、口角を上げて描きます。これは、いつも笑顔でいて欲しい、ということなのかもしれません。妻が娘に「怒ってごめんね」というと、「じゃあ、ニコニコしながら怒ったらいいんじゃない?」と言っていたりするようです。(そんなことは出来ないでしょうけど)どうでも良いような絵の中にも、小さいながらの何か表現があるのかもしれません。

幼児はいつも一生懸命

2014-10-19T23:19:00+09:002014年10月19日|武蔵新城|

こんばんは。塾長の鈴木です。今日は娘の運動会でした。そこで思うのですが、幼児は、ほぼ全員、「一生懸命」がいつもですよね。もちろん、小学校であれ、中学校であれ、適当にやるという人はあまりいないと思います。なぜ、中学生でも適当にやる人がいないのは、これは周りの目があるからですよね。みんなに見られているところで、適当なことが出来る人は、ある意味、特殊な人でしょう。さて、幼児の場合は、人が見ていようとみていなかろうと、そして、普段の日常であろうと、「疲れた~」ということが殆どありません。いつでも、移動一つにしても、全力で、移動します。そして、わがまま言うときも全力でわがままをいいます。「面倒だから、これくらいでいい」というのがないんですよね。これが何を意味をするのかといえば、時々ここにも書きますが、本来人は、自分の興味のあることに取り組むときには全力で取り組むということを生まれつき持っているのだと思います。逆に、「興味がないこと」についても、何かやらせられるのは小学校以上になってからですね。それが本当に良いのか、悪いのか、少し判断が難しいですが。